Vague
物には対価があります。物を作り出して、その物を流通させることができれば、お金を得ることができます。そうやって、経済は発展をしてきました。
分業は、物を作ることの責任を見えにくくしました。自然の摂理に従っていれば、地球環境を破壊することはないのですが、自然の摂理に逆らって、微生物も分解できない物をつくり、その物は、付加価値という大義名分と一緒に、処分責任も転嫁されていくということを、残念ながら私たち人間は行ってきました。
物を作って、お金を稼ぎ、稼いだお金で物を買う。このサイクルを私たちは繰り返してきました。たくさん物を作って、たくさん売った人にお金が集まります。
そうやって、人々は豊かになりました。人が豊かになるための行動は正しい。そうやって自動車も家電製品も作られてきました。残念ながら、その恩恵を受けながら、私たちは地球を破壊し続けてきましたし、今なお、破壊の勢いは止まることを知りません。
根本的な構造は変わっていません。ただ大きな流れとして、物を作るのではなく、物を作らないという選択肢が加わってきています。
ドラスティックには変わりませんが、少しずつ、確実に変化の波はやってきています。物をつくって、つくって、作りまくって、お金を稼ぐべき、ということに、疑問符をつける人が、若い世代を中心に増えてきました。すでにマジョリティといえるでしょう。でも、物を作って対価を得るという活動をやめたら、私たちはどうやって対価を得たら良いのでしょうか?
ソフトウェアの多くは、何かしらのモノづくりと関わっています。モノづくりがなくなると、ソフトウェアの多くも必要なくなるでしょう。やはり、私たちはどうやって対価を得たら良いのか、わからなくなります。
だから、若い人が勇気ある行動で、改善を呼び掛けても、代替案がないというだけの理由で、無責任な私たちが、しっかりと耳を傾けることができていません。
私たちは豊かになることを求めているうちに、一生懸命働くことの理由を、人に楽をさせるということの価値と一致させるようになりました。本当に豊かなことかどうかということを考えることを、どこかで忘れてしまったようです。
本当に豊かなことは、暑い夏を乗り越えて、実りの秋を迎えること、厳しい冬を乗り越えて、梅や桜や桃の花や新緑を通じて、生命のみなぎりを感じること、満天の星空や美しい月を眺めることだと思います。ただ、人は一人では生きられないので、祭りがあったり、お盆と正月に少しだけの贅沢があって、また日々の美しさに、喜びを見出すことができるのだと思います。
お金を稼ぐことも、お金を使うことも大事なことです。そう教えられてきました。でも、だからそれが永遠に正しいかというと、そうではないかも知れません。今のところ、お金を稼ぐことも、お金を使うことも大事なことは間違いない、ということだと思います。
でも、そろそろ、そうじゃない考え方ができるように、ならなければいけないのかな、と思います。答えが見つかりませんが、それが、考えるということなのだと思います。そして、グレタさんのように、このまだ見つかっていない答えを探して、真剣に考えている若い人たちがいます。私たち大人も、早く、真剣に考えないと、不必要な存在になってしまうと感じます。