Virtual Reality
鏡を覗くと、正反対の世界があります。鏡の隅っこから斜めに鏡を眺めると、鏡の奥に広い世界があります。
鏡でなくても水面にもいろんなものが映ります。水面に映った逆さ富士などは大変美しい。そう、映るってことは、幻想的です。
映るためには表面が平らでなければなりません。しかし人の目は平らでないのに、人を移すことができます。目の中で反射して立体的に画像を捉えています。そして目が二つあることで、距離感をはかることができています。
鏡は平らですが、奥行きを感じます。つまり、鏡は、立体を捉えることができてないのでしょう。水の表面も平らです。水の表面も立体を捉えることができていないでしょう。鏡の奥行きを立体感をもって捉えることができるのも、目の凄さ。目ってすごい。
しかし人間は、技術によって奥行きのある世界を作り出しました。Virtual Reality。この世界では、平滑性のある鏡も水面もなくても、いや、鏡や水面に映る、被写体すらなくても、幻想の世界を存在させることができます。
幻想の世界は誕生と同時に、ネットワークに伝わる力を与えられています。ネットワークとは、知り合いの知り合いは、知り合いだという意味です。知り合いも、そのまた知り合いも幻想の世界に参加する資格を与えられます。気がつけば、地球の反対側で、幻想の世界でつながっていることもあります。地球の中心を境に、頭の位置は逆になっている人同士が、瞬時に、幻想の世界では同じ方向を向いてコミュニケーションをとることができます。
この世界は、作った世界。でも、その作られた世界の中で、コミュニケーションが発生しています。人と人が愛し合うのも、人と人が憎み合うのもすべてコミュニケーションが必要です。コミュニケーションからは、妬みや嫉妬や欺瞞も生まれますし、コミュニケーションからは、奉仕や慈悲や思いやりや感謝も生まれます。これらの感情は、現実の世界も幻想の世界も同じレベルで存在します。
考えることと現実に存在することは別です。私の理解では、考えることを追求するのが哲学だと思います。だから、我思う、故に我ありなのだと思います。現実に存在することを追求するのが物理学だと思います。だから量子が発見でき、さらにはブラックホールまで撮影できてしまうのだと思います。
幻想の世界では、考えることと現実に存在することが合わせてできてしまいます。その世界では量子は必要なく、重力も必要なく、だからブラックホールも存在しない。必要なのは、ゼロとイチとアイデアです。
幻想の世界の存在感がとても大きくなっています。確かに便利。でも、哲学も物理学もない世界は、なんか物足りないな、と感じます。