Unsung Hero
シーナ・アイエンガー著「選択の科学」を読みました。
「日本人は背景を見る、アメリカ人は個人」を見る、という内容がありました。
私がカナダに留学させていただいた時、ちょうどW杯のフランス大会が開催されていて、ジダン選手の頭突き問題が休憩時間中に話題になりました。クラスメート達は、そのことについて自分の意見を述べます。別に授業ではないのですが、みんな率先して自分はこう思うという主張をしていて、私一人黙っていたことを思い出します。
私一人黙っていたので、何も考えていない奴、と思われたと思います。実際に、そのことについて、何も考えていませんでしたので、それはそれで正しいことなのですが、なんとなく敗北感を感じました。
自分はこう思う、だからこう行動するということを、向こうの人たちは実践できていて、かっこいいなあと思いました。
一方で東日本大震災の後、どの国に言っても、「日本人は勇敢だ」と言われました。生きるのに精一杯な時に、ちゃんと周りを尊重して助け合っていると。そして今回のロシアW杯でも、日本のサポーターがゴミを片付ける姿が賞賛されています。
「選択の科学」の個人主義と集団主義は、これらのことを見事に説明していて、集団主義を重んじる日本人が日本国内および世界中でとっている行動に、素晴らしい、と思われる内容が確かにたくさんあるのではないかな、と思いました。
縁の下の力持ちという言葉があります。英語にすると、unsung heroというそうであり、同じ概念があるようです。でも、日本人には、自らすすんで縁の下の力持ちになることを美徳とする人たちがいます。私も、Heroになるのと、Unsung Heroになるのと、どちらかを選ぶならば、絶対にUnsung Heroになりたいです。しかし、一般的に、他の国には自らUnsung Heroの方がいいという人はあまりいないんじゃないかな、と思います。決して、偏見とかではなく、日本人が自ら進んでで縁の下の力持ちになりたいと思うことの美徳は、日本人特有のものであるように思うからです。
最近の国会を見ていると、文書改ざんなどで責められている官僚の方は、むしろ、Unsung Heroの美徳を持った方のようにも感じます。自分が正しいと思うことは置いておいて、国の将来への希望をかけて、自らを犠牲にする。そこまでして、今の政権を守らなければならないという覚悟を感じてしまいます。「今の世界情勢で、日本の元首がコロコロ変わっている場合じゃないぞ」と。
アメリカの大学で、もしこの文書改ざんの問題をディスカッションをしたら、個人にスポットが当たると思います。日本のマスコミも個人にスポットを当てた方がわかりやすいので、個人にスポットを当てていると思います。でも、この問題は個人にスポットを当てて考えている限りは、延々と問題として続くと思います。イデオロギーならば、右と左に分かれて、ずっと議論すべき問題かもしれませんが、この問題はイデオロギーでも何でもなく、一つの出来事なので、国政の運営を考えた場合は、本来はさっさと終結させるべき問題です。
日本人は、集団の中での自分の役割を優先してしまいます。官僚の役割は、日本の未来を素晴らしいものにすること。そのために、自分が正しいと思うことと、逆のことをしなければならないことはいくらでもあるのではないかと思います。
文書改ざんを指示した方は、「辻褄を合わせた」とか「リスクをとった」とかではなく、ようやく生まれた長期政権のもので、日本の政治機能を安定化させることに期待して、自ら悪者になることを買って出ていらっしゃるように思います。
そして、今、実際に悪者になっていたとしても、それは最初からきっと覚悟してのことであると思います。さらに、最後どういう結果になったとしても、自ら悪者になるという判断をしたことが、正しかったのか、間違っていたのかさえもご本人にとっては重要ではないと思います。それが自分で選択したものである限り。でも、こんな考え方は、なかなか日本以外では受け入れられないように思います。
大変残念なのは、自分で選択する機会を与えられなかった方、自らの善意と戦って、組織の指揮命令を優先せざるを得なかった方が何人もいらっしゃることだと思います。これこそが本当の日本の問題点。
個人主義がいいとか、集団主義がいいとか、そういうことはわかりません。それぞれいいところがあり、どちらも重要だと思います。ただ、自ら選択することができず、犠牲になってしまうことは、無くしていかなければならないと、「選択の科学」を読んで、改めて思いました。