An Encounter

出会いは必要必然です。どの会社に入るか、どの部署に配属になるか?目に見えない様々な必然の結果、あるべきところに収まるように出来ていると思います。目に見えない様々な必然とは何か?基本的には五感だと思います。この音楽が好きだ、この風景が好きだ、この感触が好きだ、といった、個人が元来もつものと、さらに、自分を見つめ直して、音楽とはこうあるべきだ、風景とはこうあるべきだ、感触とはこうあるべきだ、という未来への変化に対する期待、それに少しだけの過去の経験が重なって必然が形成されると思います。

サザエさんの漫画、声優、主題歌。これだけ普遍的な出会いはなかなかないと思います。そして日曜日の夕方とサザエさんとの出会いもまた普遍的。月曜日の朝のサザエさんは想像もつきません。

スタンダールの赤と黒。赤と黒の意味するところは分かりませんが、「生まれる時と場所を間違えた」という言葉に運命を感じます。存在するのは愛と死のみ。誰との出会いも求めていなくても、出会い、愛し、そして死ぬ。愛と死が普遍だから、出会いもまた必然にならなざるを得ないと思います。出会いが必然で、そしてそこに必ず愛と死が介在する以上は、戦いはなくならないと思います。

少年漫画のワンピースには、世界政府が存在します。世界政府が存在していることと、戦いが続いていることの組み合わせは必然だと思います。法治国家は、人の支配ではなく、法の支配に委ねるから存在します。人が、法に、支配に委ねられるのは、異なる文化を受け入れる許容性が前提です。出会いが、五感によって必然ならば、世界が小さくなればなるほど、戦いの場が増えるに違いありません。世界がテクノロジーによって、どれだけ小さくなっても、愛と死に答えられるのは宗教だけ。人は愛のために生きて、愛のために死ぬならば、宗教は最後まで一つになりません。対立は大きくなるばかり。

トランプ大統領は、喧嘩の天才だと思います。喧嘩の天才は、絶対に人を殺しません。愛の手前にあるのは死。死に至らずに愛を手にいれるのは難題ですが、喧嘩の天才はその術を知っています。しかし、今の世界の指導者達に喧嘩の天才が何人いるでしょうか?安倍首相、習国家主席、モディ首相、マクロン大統領などは、喧嘩の天才だと思いますが、全世界を見渡すと、こういった平和という幻想の中で、平和は作られたものであるということを知った上で、喧嘩という形で偽装の戦いを繰り広げることができる喧嘩の天才は、世界の中でも一握り。相手を誤ると、喧嘩をしているつもりが、いつのまにか殺し合いになってしまいます。土俵からはみ出てしまっている場外で戦ったら、そこでの出会いは無制限になってしまいます。出会いが無制限ということは、愛と死も無制限ってこと。

出会いは必要必然。魚を箸で食べる日本では、器用に小さな骨を取りそぞいて美味しく食する経験が、精密部品を作り上げる技術の基盤となっているような気がします。日本の技術力もまた、必要必然の出会いから生まれていると感じざるを得ません。北方領土も沖縄も、東と西が出会った時に起きる強烈な衝撃を緩衝するための不可欠な役割を果たしています。米軍が北方領土に基地を作る可能性がある限りは絶対に北方領土は返還されません。だから沖縄に米軍基地が集中する。宜野湾基地の隣の学校に窓が落ちて来たのは、単なる一つの事件としてではなく、五感を前提とした必要必然の出会いとして、真剣にその理由を全員で議論すべきだと思います。

土俵の外では、どんな出会いが生まれるのか、誰にも分かりません。ただ、世界一の大国が、「エルサレムをイスラエルの首都だ」とやってしまった以上は、これからは誰もが土俵の外を意識せざるを得なくなりました。そこにはもう、作られた平和はありません。あるのは必要必然の出会いのみ。その出会いとは愛と死です。

平和の中に使っていると、平和を維持することの大変さが分からなくなります。これだけ変化が早く、複雑で多様な世の中では、昔よりも平和を維持することは難しいはず。だから、五感を鍛えないといけないと思います。イスラエルで生まれ、ドイツに住むイスラム教シーア派の家族をもつスンニ派のサザエさんの物語があって、その主題歌を、ヒスパニック系アメリカ人が作曲し、インドネシアの華僑が作詞するような、そんな普遍的な、必要必然の出会いを、信じています。

2017-12-24 | Posted in BlogNo Comments » 

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