妻籠宿 (Tsumago Juku) / 木曽 (Kiso)

妻籠宿は中山道69宿のうち、日本橋より42番目の宿場町です。中山道と飯田街道の分岐点として栄えたところです。

明治になり鉄道や道路が新たに造られ、宿場としての機能を失った妻籠宿は衰退の一途をたどりやました。やがて昭和四十年代になり集落保存と景観が修復され、妻籠宿の町並みが見直されました。

妻籠の人たちは、町並みを守るために家や土地を「売らない・貸さない・壊さない」を中心とする住民憲章をつくり、ここで生活しながら、江戸時代の町並みという貴重な財産を後世に伝えています。

およそ800mの通りの中央付近には「脇本陣奥谷」、桃山様式を取り入れたウグイス張り廊下や欄間が美しい「光徳寺」、庶民の木賃宿「上嵯峨屋」など見所満載です。

上嵯峨屋は昭和44年の解体復元によって18世紀中期の木賃宿であることがわかりました。

下嵯峨屋は当初長屋であったものです。妻籠宿における庶民の住居を代表する形式をとどめています。

妻籠宿本陣には島崎氏が任命され、明治に至るまで本陣、圧屋を兼ね務めました。島崎藤村の母の生家で次兄広助が養子に来ています。平成7年4月に復元されました。

日本で最初に宿場保存事業が行われた寺下地区は妻籠宿保存の原点とも言うべき町並みです。

下の写真は高札場です。今日でいう「官製掲示板」で、幕府や庶民に対し、金星や法度等を示したものです。

妻籠宿は、木曽十一宿の中でも最も小さな宿場でしたが、旅籠や地場産業従事者も多く、木地師によるろくろ細工の木工品や御免白木の許可を得た農家の女性たちによる「蘭檜笠井(あららぎひのきがさ)」が産業化され各地に広まりました。

鯉岩は大きな鯉の形をした岩で中山道三名石の一つでしたが、明治24年の濃尾大地震で形が変わってしまいました。

島崎藤村は、小説「夜明け前」の冒頭で、「木曽路はすべて山の中」と著しましたが、木曽谷の人びと、山河、街道は、「山を守り 山に生きる」独自の暮らしと文化を育み、「森林の保護」「街道・宿場の保存」「伝統工芸の伝承」の心は今なお息づき、そして未来へと受け継がれてゆきます。

妻籠は中山道と飯田街道の分岐点として栄えたところで、下の碑は明治14年(1881年)に、飯田・近江・地元の商人によって建てられたものです。

大妻籠にある藤原家住宅は、17世紀半ばの古い建築で長野県宝に指定されています。

中山道は江戸日本橋から京都三条大橋までを結ぶ六十九次、約534kmの街道で、険しい碓氷峠や木曽路を通る山道でした。

それに比べ東海道は五十三次、約488kmの街道で温暖な太平洋岸を通ります。しかし、徳川家康による街道の整備で東海道の大河川には橋をかけず、富士川、天竜川などを舟渡しとし、大井川などは徒歩渡しとしました。江戸を守るという政治的意図があったからです。

中山道は険しい道でしたが、東海道のように天候の悪化による川留や、宮宿(名古屋市熱田区)〜桑名宿(三重県桑名市)のような約4時間もかかる船旅もありませんでした。そのため、姫君輿入れをはじめ多くの女性が中山道を通ったことから姫街道と呼ばれました。

2017-12-09 | Posted in NaganoNo Comments » 

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