Paradox

テスラ・モーターズの株価が、1時的にせよGMの株価を上回りました。2018年に生産台数を50万台にするといっている創業後10年に満たない会社が、生産台数1000万台近い、創業後100年を超える会社よりも株式市場で高く評価されていることになります。

今はどっしりと体力があっても、この先誕生する会社にあっという間に抜かれてしまう程変化のスピードが早い時代。その変化のスピードを支えているのが新しいテクノロジー。だから新しいテクノロジーを確立した企業は、今は生産台数が20分の1以下、歴史が10分の1以下でも、将来性が評価されて、資産価値が高くなります。

昔トービンのq理論というのを習いました。トービンのqは株式の時価総額を資本で割った値であり、トービンのqが上昇すると投資が上昇し、qが下落すると投資が減少します。テスラ・モーターズのトービンのqは極めて高いことが想像できます。じゃあ、何がこれだけ時価総額を高めているのか?

資産価値はよく分かります。PLの積み重ねでBSに蓄積された資産なので、財務諸表で明確に現れています。一方、株価は何の積み重ねか?株は、価値が何倍になる可能性もあるし、ゼロになる可能性もあるものです。人は、自分の資産を、資産がゼロになる可能性があるものに投資をします。つまり、自分の財産を捨てるだけのリスクをとってでも賭けるだけの価値がある企業に対して投資するための手段が「株」だと思います。大企業がいつのまにか倒産の危機になってしまう時代。小が大を買収する時代。もはや確実に配当をもたらす株への安定投資というのは成り立たない一方で、将来性への判断基準も財務諸表からはわからなくなってきています。

自分で働いて得たお金を捨てる覚悟で投資するのだから、結局のところ、好き嫌いで判断するしかないんじゃないかな。

社会人になったばかりの時、京阪沿線にすみました。古川橋のダイエーによく行きました。その後引っ越した場所には、関東であっても関西であっても必ず近くにダイエーがありました。だから、ダイエーの株を買いました。どれだけダイエーにお世話になったことか、計り知れません。ダイエーの株を買っても、株価の変動には全く関心がありません。しかし、ある日、ダイエーの株がイオンの株に変わりました。イオンの株は安定していて、定期的に配当金が入りますが、イオンには何も思い入れもないので、配当金もそのまま溜まっていて、その金額にも興味がありません。

おそらくイオンへの思い入れが大きいのは子供たちの世代でしょう。子供たちとはよく一緒にダイエーに行きましたが、子供たちが、自分たちだけで、自分の足で行ったのはイオン。ダイエーには思い入れはないけどイオンは好きだと思います。

損得関係なしで、好きな会社に投資しても、いつのまにか、興味のない会社が買収してしまう。でもその買収した側の、私にとっては興味のない会社は、子供たちが好きな会社だったりする。時代が流れているからこそ、どこかに簡単に収まるってことはないんだと感じます。

さて、コンサルを辞めるときに、大先輩に、過去のクライアントを回るように言われました。自分は一生懸命取り組んで、クライアントも喜んでその対価を払ってくれたかもしれないけど、本当にクライアントのためになったかどうか、最後までよく確認するといいと。実は怖くて、まだそれが出来ていません。プロジェクトに取り組んでいた時は一生懸命、精一杯やったけど、数年経って振り返って、その効果を問われることほど、怖いことはありません。

それは、役に立たなかったという、自分の中で確信めいたものがどこかにあるやましさ、一言で言えば、卑怯ということだと思います。

でも、言い訳ではないですが、このことはすべてに共通するのではないかと思います。人々に明るさをもたらした電球は、きれいな星空を奪いました。数日かけなければいけないところに1日でいけるようにした自動車は、大気を汚染しました。過去多大な社会貢献をしてきた企業でも、100%無実というのはないと思います。むしろ、人類に貢献した技術程、人類の存続にとってはマイナス面も大きいかも知れません。かつては必要は発明の母でしたが、人々は十分豊かになった結果、不必要なものをどんどん発明しています。この不必要なものの責任を問われるのは数年後。それが何をもたらすのか、今は誰も分かりません。わかるのは、ただ一生懸命なこと。

国家が形成され、王による統治から法による統治に変わります。三権分立で法を作る側と法を守る側と法を執行する側が相互に牽制することで、法の統治が守られます。では法は国民のために作られるのか、それとも国家のために作られるのか?法は国民のために執行されるのか、国家のために執行されるのか?国家は国民のために存在しているのか?組織の単位が大きくなればなるほど、組織で大きなことができますが、一人一人はなおざりにされて行きます。絶対というものはなく、普遍的な事実などなく、普遍性とは、すなわちパラドックスだと思います。

先日、高校時代のテニス部の恩師を囲む会が開催され、先生がテニス部顧問をされていた10年間の間に教わった37歳〜47歳の年代のたくさんの人が、70歳を超えた先生に会うために、全国から豊橋に集まりました。私も関東から向かいました。

私はテニスが下手だったから、先生の記憶にないかも知れない、とか、たくさんの小さな悪さをしたので、先生に嫌われているかも知れないとか、そんなことばっかり考えて豊橋に向かいました。たくさんの人がいたので、私のことを覚えているかどうかとか、そんなことは結局分かりません。でも、先生に一言だけ、「ありがとうございました。」と言えたことが、とても嬉しかったです。そして、その場に集まったたくさんの人たちが全員、同じ気持ちだったんじゃないかな。先生が覚えていようといまいと、自分がいただいた恩を忘れていなければ、「ありがとうございました。」と一言、言えただけでとても幸せな気分になれます。

すべてはパラドックス。求めても得ることはできないかも知れないし、求めて得たものを一瞬で失うかも知れないし、もともと得ない方がよかったかも知れない。毎日、毎日、目の前にあることに感謝しつづけることが、不確実なことのスピードが増している時代を、ハッピーに生き抜くための最大の秘訣じゃないかな?と思います。

 

 

2017-07-23 | Posted in BlogNo Comments » 

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