freedom of expression

中学生の時、一人でテレビを見ていました。リモコンでパチパチでチャンネルを変えていると、インドの貧しい子供達の特集が。ボロボロと涙を流して、俺は何をやっているんだ、とすごくショックを受けました。その時から、私の心は海外に向きました。ここ二年ほど、IT企業にお世話になって国内にいますが、多感な中学時代にその番組から受けたショックはそのままなので、きっとまた、望むと望まざるとにかかわらず、何らかの形で海外関連の仕事に戻ることは間違いありません。ITで学んだことが、グローバルの問題を解決することに必ず役に立つと確信しています。

中学生の時に偶然みたあるテレビ番組が、私の人生を決めたと言えます。それまではただ喧嘩が強くなりたいだけでしたが、それからは海外で貢献できる人間になるために勉強を始めました。そのテレビ番組がなければ、少なくとも今、英語は喋っていないな、と思います。

国連の特別報告者が、日本の報道の自由に懸念を表明したというニュースがありました。報道は人々に大きな影響を与えます。ペンは剣よりも強し。表現の自由は基本的人権の中でも最も尊重しなければならない権利です。日本の報道はすでに東日本大震災の時にはもうおかしかったですが、最近になって安倍政権一強に対する世論の懸念の風潮もあってクローズアップされるようになっています。読売新聞のことなど、ずっと前から既成事実として教えられてきたことが、今になって、「なんかオカシイぞ」と世間で騒がれるようになっています。

単純に、既得権益が表現の自由を恐怖に感じ始めていると思います。表現の自由を定めた憲法21条まで改正の対象になりつつあります。法治国家という体制を維持するためには、国家権力の存在が不可欠なのですが、情報の拡散するスピードが速すぎて、人々がニュースを求めるようになりすぎて、いつのまにか人々が国家権力そのものにクエスチョンマークをつけるようになってきている。

まさにパラドックスです。答えがないから常にパラドックスなのですが、歴史は常に扇動がきっかけで変化します。今世の中に溢れるニュースには扇動者がいます。大統領選挙だって、イスラム国だってそう。不確実な時代、人々は確実なものを探して、確実と思えるものに寄りかかろうとします。中学生の時に見たテレビが私の人生に大きな影響を与えたように、これから様々な人々による表現が様々な人々に対して、様々な影響を与えることになるでしょう。それもまた、重要なことであり、そして危険なことです。

目の前に道が二つあった時、どっちの道を選ぶか、正しい決断を下すことはとても難しい。だから勉強が必要です。人の意見を聞くことも大事です。しかし、最後は自分で選ばなければならないし、自分で選んだ道は自分で責任を持たなければなりません。しかし、表現の自由がなく、全員、右の道を行けと命令されて左の道を選ぶことができなくなってしまったら、その選択に対して自分で責任を取ることができなくなります。これが一番の問題。責任を取ることができなくなると、後悔もできないです。自責がなくなると、残るのは他責のみ。100%うまくいくなんてことはないから、右の道を全員選んで全員ハッピーなんて絶対ありえないです。結局自分で選べなくなると、他責がはびこることになります。だんだん思いやりの心も持てなくなっていくし、ボランティア精神もなくなっていくでしょう。それは人としてもっともつらいことです。だれも、そんな自分を客観視したくないでしょう。だから心の中の善意の気持ちが、さらに他責に拍車をかけ続けることになります。

表現の自由は国家権力にとって脅威か?もちろんYESです。では表現の自由があることと、表現の自由がないことと、どちらが国家権力にとって脅威か?表現の自由がない方が脅威です。他責は自分も相手もすべて滅ぼします。

少なからず、今、いろんな国の国家権力がメディアの力を脅威に思い、メディアの力を利用したり抑圧したりしようとしています。表現の自由に対する危機。でももしかしたら、メディアの方々は、そんな抑圧はほっておいたよいのではないでしょうか?法治国家だから、法の権利の下に、表現の自由を守ろうという気持ちはよく分かります。しかし、反発すればさらに抑圧されるのが世の常です。だからほっておいたら、そのうち抑圧しなくなるのではないでしょうか?私が素人だから、こう思うのでしょうか?もしかしたらそうかも知れません。

ただ、報道には、発信する人もいれば、見る人もいます。表現の自由は確かに大切ですが、見る側の立場からすれば、どうでもいい過去の話は、どうでもいいです。王様の耳はロバの耳です。すべて自分の責任で行動しているのだから、もし悪いことをしたら必ず自分に返ってきてきます。人のどうでもいい過去の、言ったとか、言わなかったとか、あっとかなかっとかの話についてのニュースを見ていても参ってしまいます。

若者の可能性は無限大。今私は41歳ですが、若者だと思っています。中学の時に見たようなすばらしい報道にもっと触れて、そういった報道から、もっともっと刺激を受けて、あと60年以上、自分自身が生まれてきた意味を追求し続けていきたいな、と思います。

2017-06-25 | Posted in BlogNo Comments » 

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