学ぶ喜び - pleasure of interest –

「俺がお前の目になる」

子供の頃、私の視力が矯正できないと医師に言われた時に父から言われた言葉です。

実際のところ、私は覚えていません。

母から聞いて、父がこう言っていたことを知りました。

 

覚えているのは、私が生まれて初めて、普通の人と見える景色が違うと知った時。

まだ幼稚園にも入っていない時か、それとも幼稚園に入ったばかりの時か?

コンセントの穴をものすごい覗き込んでいて、母がざわついていたのか、

母に怒られたのか、そのあたりは覚えていないのですが、子供ながらに、

そのコンセントの穴をきっかけに、自分の視力が極めて弱いことを知りました。

 

ある日、猛烈な訓練が始まりました。

小学校に入ったばかりだったと思います。もしかしたら入る前か?

外を見て、何かの機械を覗き込んで、毎日カシャーン、カシャーンと何かが機械の中で動きます。

毎日何回も何回もその機械を覗き込みました。

今でも、そんな治療法があるのか知りません。

毎日それがいやでいやで、泣きながら機械を覗き込んだことを覚えています。

 

その訓練が良かったのか、それともそんなことは関係ないのか、それも知りません。

しかし、覚えているのは、メガネをかけた時に、明るくて、何もかもが違って怖かったこと。

メガネをすぐに外して、またすぐにかけたこと。

それをきっかけに、毎日ものすごく嫌だった、機械のカシャーンがなくなったこと。

今思えば、あの機械には何も医学的な意味はなく、

ただ、私に「いつか見えるようになる」と信じ込ませるためのものだったのではないかという気がします。

しかし、実際に目は見えるようになりました。もちろんその後もいろいろあったし、

これからも見え続けるかどうかはわかりませんが、少なくとも40歳になった今も見えています。

 

パーッと明るくなった時の景色は、今でも鮮明に覚えています。

明るくなった時の恐怖は、父と母の喜びのために一瞬で消えました。

 

小学校の担任の先生が、クラス全員の前に私を連れて行って、

「今日からまきのくんがメガネをかけます。

絶対にメガネとか言っていじめたりしないように。そんなことをしたら先生が許しません。」

といってくれたことを覚えています。

 

それから何もかも変わり始めました。

何をやってもダメだったのが、人並みにいろんなことができるようになりました。

頭のスピードは普通の人よりかなり遅かったですが、学ぶ喜びを知りました。

なんでも知りたい。自分が頭のスピードが遅いことを知ったから、努力することを身につけました。

 

 

誰も、メガネを理由に私をいじめることはありませんでした。

むしろメガネは私のトレードマーク。友達はそれから増えました。

 

「奇跡のひと マリーとマルグリット」を見てそんなことを思い出しました。

目が見えず、耳が聞こえないマリーが、ナイフという言葉を覚えてから、奇跡が始まります。

マリーはその後生涯をかけてシスターとして不自由をもって生まれた子供達の教育に取り組みます。

 

マリー・ウルタンは、ヘレン・ケラーほどは有名ではありません。

ヘレン・ケラーの家が裕福だった一方で、マリー・ウルタンが生涯を過ごしたのが修道院だったこと

という、社会的な背景が少なからず影響があるでしょう。

 

ヘレン・ケラーは世界中を回って、不自由を持つ子供達に勇気を与えました。

マリー・ウルタンは、ヘレン・ケラーのように世界中を回ることはありませんでしたが、

マリーもまたヘレン・ケラー同様生涯勉強を続けました。

 

そしてマリーに命をかけて知を教えたシスター・マルグリッドと、

シスター・マルグリッドから知を教わり、そして知を知らない子供達に知を教えたマリーが共に生涯を過ごした

ラルネイ聖母学院は今も存在していて、今も耳が不自由な人たちへの教育を続けています。

 

生きる喜び。それは死を受け入れた時に初めてわかることかも知れない永遠のテーマです。

死を受け入れた時に、自分は幸せだったか、と振り返ることになると思います。

その時に、「自分が幸せだったかどうか」、には、必ず、

「自分自身が幸せだったか」と「人を幸せにすることができたか」が含まれます。

 

人を幸せにすることができた人は、絶対に、自分自身が幸せだったと思うでしょう。

人を幸せにすることができなかった人は、どれだけの富と名声を手に入れても、

死に直面した時に、「自分が幸せだったか?」とクエスチョンマークがつくでしょう。

 

幸せとは与えること。

与えるためには、知らなければなりません。

だから、人は、知った時に、喜びを感じる化学物質がでるように作られているのだと思います。

そして人は成長する。知を求め続ける。

知を得た人は、得た分だけ、与える事ができる。

 

喜びとは知る事。

 

父が「俺がお前の目になる」って言ったのは、そういう事なんじゃないかな。

私が自ら知を知るようになるまでは、目になるが、父としての役割。

 

父が他界して20年が経ちます。

10年も経たないうちに、父が亡くなった時の年齢に私自身がなります。

 

子供達は立派に大きくなりました。

私が生涯をかけて大切にしなければならない人は、今も、障害者のために毎日働いています。

 

ようやく、自分が何をしなければならないのか、少しだけ分かったような気がします。

 

 

 

 

2016-09-04 | Posted in BlogNo Comments » 

Related article