我思う、故に我あり – Je pence, donc je suis –
子供の頃、シートン動物記を読んで、世界に関心を持ちました。
理由はわかりません。あったのか、なかったのか。
ただとにかく、毎日本ばっかり読むようになったのは、シートン動物記がきっかけです。
その後、ドリトル先生シリーズにはまりました。ドリトル先生はハードカバーで、一冊が高い。
親は、決して裕福ではありませんでしたが、母親は内職までして、本だけは好きなだけ買ってくれました。
本ばっかり買っているので、いつまでたっても貧乏。でも母親は本を買います。
なぜか? 母親に今、聞いても、知らないと言います。
ドリトル先生の何かの本を読んで、速記というものがあることを知って、
英語に関心を持ちました。
我思う、故に我あり。
この我は、それぞれ別人だと、ゴダールの映画は言っています。
その通りだと思います。
思っているから存在している自分と、自分の意思とは無関係に存在している自分がいる。
自分の意思とは無関係に存在している自分には、逆らうことができないような気がしています。
年を重ねれば、重ねるほど、逆らうことができないことを感じる場面が多くなります。
これが、成長が鈍化するということなのか、それとも運命なのか?
50歳にして、31歳の師匠をもった伊能忠敬は、思ったのか、それとも、そうあったのか?
いずれにしても伊能忠敬は測量を完成させます。
それが歴史。それが事実。
いずれにしても、今、誰もが、「我思う」と「我有り」の二人が存在しています。
自分でコントロールできるのは、「我思う」の方の我だけです。
「我思う」が、コントロールできるのも、「我有り」が存在している間だけ。
シートン動物記をもう一回読んで、我思うと我有りが、なんとなく一致した時に、
初めて、
一人前になったということができるのかな、と思います。
まだ道のりは大分長いような気がします。