足尾銅山(Ashio Copper Mine) / 日光 (Nikko)

足尾銅山は栃木県西部、渡良瀬川の最上流部に位置する日光市足尾町にあります。銅山の発見は諸説ありますが、16世紀中には採掘が始められていたと考えられており、慶安元年(1648年)には徳川幕府の御用銅山となりました。産出された銅は、江戸城、芝の増上寺、日光東照宮などの銅瓦に用いられ、長崎から海外にも輸出されました。貞宝元年(1648年)には1500トンの生産量を記録し、全盛期をむかえましたが、その後は徐々に低下し、江戸時代末期にはほぼ廃山同然となりました。

明治10年(1877年)に古川市兵衛が銅山を買収、経営に着手し、近代的手法による鉱源開発を行なった結果、同14年、鷹の巣坑、同17年本口坑が相次いで直利(富裕な鉱床)を発見することに成功し、以後急激に発展しました。

産銅量の増加に対応して、明治23年(1890年)には水力発電所としては我が国最初期に位置付けられる間藤水力発電所を完成させ、電気ポンプと電気巻揚機を設置して廃水・鉱石巻揚げの効率化を図るとともに、電気鉄道、架空索道、軽便馬車軌道の敷設による運搬の合理化を実現させました。

また、製錬技術の近代化に関しては、明治26年(1893)にベッセマー式転炉による練銅法を日本で最初に実用化に成功し、高品質の製銅が可能になり、生産性が飛躍的に向上しました。

約400年にわたり切り開いた坑道の長さの総延長は1,234m(およそ東京から博多間)に達します。この坑道は”日本一の鉱都”と呼ばれた足尾銅山を再現する国内最大の杭内観光です。

江戸時代の手堀りの様子から機械化された鉱山の様子まで、展示されています。

銅山の成長は、一方では製錬過程で発生する亜硫酸ガスによる煙害の発生や、採鉱、選鉱、製錬の全過程から発生する重金属を含んだ廃水による下流域への水質汚染や農地の土壌汚染をもたらすという公害問題(鉱毒問題)を発生させることとなりました。

田中正造や被害民の運動により鉱毒問題は、「足尾鉱毒事件」として広く知られることになりますが、事態を重く見た政府は「鉱毒予防工事命令」を発令し、体積場、沈殿池、濾過池、脱硫塔などの鉱害防除施設の建設を命じました。特に明治30年(1897年)の第3回予防工事命令では、わずか半年という期限内で完成しなくては鉱業停止という条件のもと、古河市兵衛は104万4千円の巨費を投じて工事を完遂させました。

これにより廃水対策は一定の成果を見るものの、脱硫塔での煙害対策は十分でなく、その解決には多くの課題を抱えながら試行錯誤の歴史を経て、自溶製錬法とそれに伴う脱硫技術が確立される昭和31年(1956年)まで待たなければなりませんでした。その後、古河が独自の改良を加えて完成させたこの公害防除技術は、現在では国内だけでなく海外においても、環境負荷低減のために導入されています。

足尾銅山の除害対策は国家の公害対策として位置づけられ、以後、国内の諸鉱山の公害調査が本格化するきっかけとなりましたが、このような取り組みは日本の公害対策の起点となったと思われます。

足尾銅山は昭和48年(1973年)に閉山し、その後も輸入鉱石による製錬が続けられていましたが、昭和63年(1988年)に精錬所の稼働も停止され、鉱石による銅生産の歴史に幕を閉じました。

しかし、坑内廃水の浄水処理や、煙害地の植林は、明治時代から今日まで続けられています。特に煙害地の植林は、国・県・古河のみならず多くのボランティアが参加し、荒廃地であった山々の緑は回復しつつあります。

このように森林の保全と緑化の推進活動など、環境との共生に向けた努力は今も続けられています。

2018-07-01 | Posted in TochigiNo Comments » 

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