AI Governance

コンピュータで出来ることは、人間ができることのごく一部だと思います。ただそのごく一部については、とんでもない能力を発揮して、人間の英知を集めても勝つことが出来ない。AIによって、その分野は応用されるようになり、そしてコンピュータが自ら学んで、その適用範囲を拡大させていく。ビッグデータをAIに提供することにより、情報の精度が高くなるとともに、今まで人の頭で考えつかなかったようなアウトプットが生み出される。

そのため、AIは単なる便利なツールという位置付けだけではなく、行動経済学やヘルスケアの領域における新たな役割が期待されるようになっています。まるで人類の課題を解決する救世主。これは人間の感情、さらには身体の領域に関わることであり、開発・生産・売買・金融といった経済活動の領域をすでに超えています。AIの活用により、これまでの経済活動を基盤としてきた資本主義が何かしらの影響を受けることは避けられないでしょう。

資本主義が影響を受けても、新しい秩序が構成されて、人類が幸せに永続できるならばそれはむしろ望ましいことです。AIは、物事をより効率に、より最適にしていくという意味で人間の知能よりも優れていると思うので、おそらく社会は望ましい方向に向かって行くのだと思います。

「太陽の王ラムセス」で、ラムセスの父セティ王は、ラムセスに対して、統治とはファラオによる支配でありファラオの役割とは法に委ねることであることを教えます。王がいるから法が守られ、王になることは、自らよりも法を優先しなければならないという、孤独との戦いを続けるということを意味します。しかしエジプト文明は崩壊します。モンテスキューが法の精神で三権分立を唱えます。絶対的な王ではなく、権力のバランスと相互監視が、法の秩序を維持するようになります。

AIができることは、人間のごく一部ですが、そのごく一部は、法による統治のかなりの部分をカバーしています。例えば、法典を正確に覚えること、新しい法律を更新すること、などは従来のコンピュータの機能の領域でカバーできる内容でしたが、過去の判例というビッグデータを手にいれたAIは、新しい係争における法の解釈において、人間よりも優れた解釈をする可能性があります。

しかしAIによる法の解釈が人間による法の解釈よりも優位に立った時点でそれは法による支配ではなくなります。AIはファラオにはなりません。ファラオは恋もするし、絶望もするし、嫉妬もする一人の人間だからこそ、法による統治が安定します。

法律がAIの活用に適しているというのは誰でも考えつくことです。そしてその開発は、膨大な工数との勝負だけなので、必ず誰かがやるでしょう。そして出来上がったAIは、法治国家の下ですばらしいツールになるでしょう。その技術は国境を超え、夢のような世界を見せてくれるに違いありません。そのツールをコントロールするのが人間。しかし、人間が従うのは法。ここで大きな矛盾に直面することになります。だから今、国連でAIの倫理が議論されている。一方で、世界は分断され始め、保たれていたバランスは崩れつつあります。バランスが保てなくなると、人はよりかかるための拠り所を求めます。エジプト文明には、ファラオという強力な拠り所がありました。ファラオがなき世の中で、AIが客観的なツールとして拠り所にならないか、心配です。AIの脅威に対抗するために、AIを拠り所とする。人間のバランスが崩れると、なんだかんだでAIからは逃れられなくなります。司法、立法、行政、AIの四権分立は有り得ません。そもそもバランスがとれていない。

新しいツールの開発は、富をもたらしますが、誰から新しい富を手にするということは、誰か、または何かが、古いものを失っているということを意味します。AIがこれから活躍するフィールドは、これまで未開拓の分野だったので、それだけもたらす富も巨大です。すなわち、失うものも巨大。だからこそ世界は、こういった新しい危機に対処できるバランスが必要です。今の世界にはファラオがいません。徳川家康のように世界各国の首脳に参勤交代をさせることもできません。法による秩序がAIによる秩序と混同しないように、一人一人が、愛と死を忘れないように、日々の恵みに感謝しながら生きることを、これまで以上に、心がけていかないと、本当に映画のマトリックスの世界になってしまうと思います。

2018-01-07 | Posted in BlogNo Comments » 

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