踊り – dance-
息子は幼稚園に入るくらいまで、音楽をかけるとよく踊りました。
また、花火大会に行って、花火を見ていると、どっかーんといって花火の形のように大きく手と足を開きました。
高校生になった今も、踊っているかどうか知りません。
ビートルズとか聴いているので、あんまり踊ることはないんじゃないかと思います。
でもきっと、踊るのは嫌いではないと思います。
私も好きな音楽をかけると、踊りたくなります。
踊り方をならったことはないのですが、
楽しくなると、体を動かしたくなります。
踊っているということは楽しいということで、楽しくないのに踊ることはまずないし、
踊っているのに楽しくないということもまずないと思います。
つまり、常に、踊り続けていれば、常に楽しいということです。
さて、目の前に、にんじんがぶらさがっています。
そのにんじんに手を伸ばすか、伸ばさないか?
そのにんじんには、毒が入っているかも知れません。
にんじんを食べて後悔するか、食べずに後悔するか?
常に踊り続けている人の場合、食べずに後悔することは絶対に避けるでしょう。
俺は毒が入ってたとしても、にんじんを食べて、腹を壊すよといって、案の定、腹を壊して、苦しむ。
でも、きっと食べなきゃよかったとは思わない。
自分の判断だから。
常に踊り続けるためには、毒を食べても腹を壊さない強さが必要です。
毒を食べても腹を壊さない強さをどうやって身につけるか?
それはやはり、目の前にあるにんじんを食べ続けて、たまに痛い思いをしながらも、
それでもやはり食べ続けることが必要でしょう。
あるいは、毒を食べても腹を壊さない強さを身に付けるのではなく、
毒が入っているかどうか、見分ける知恵を身に付けるかも知れません。
それでも、踊り続けることができます。
にんじんに毒が入っているかもしれないから、にんじんを食べないというリスク回避をしていると、強さも知恵も身に付けることができません。
残念。それでは踊り続けられません。
だから、踊る以外の楽しみを見つける必要があります。
リスクのない楽しみ。
そんなものあるのでしょうか?
世の中物騒になったと言われます。
小学校も親の送り迎えつき。なんと車で送り迎えまでしている親もいます。
しかし、本当に物騒になったのでしょうか?
私が子供の頃の方が、怖い人はいっぱいいました。
世の中もっと物騒だったと思います。
通学路はけんかの場。小学校6年間、通学路で強くなったと思います。
私は一度転校していますが、どちらも一緒でした。
きっと、昭和50年代の日本はどこもそんな感じだったでしょう。
けんかして傷だらけになって帰って、親にはプロレスごっこって、
今思えばバレバレのうそをついて、そのままランドセルだけおいて遊びに行きました。
昔と今で変わったのは、リスクを乗り越えることを教えるのではなく、
リスクを回避することを教えるようになったこと。
「危険だからやめなさい。」
こればっかりだと、いつまでたってもリスクを乗り越えられません。
先週のフランス語の授業のディスカッションのテーマは「踊り」。
昔はみんな踊っていましたが、どうやら若い子たちは今はあまり踊らないようです。
ダンスは、踊るのが好きな一部の人がすること。
いやいや、そんなことありません。
みんな踊るのは大好きなはず。
目の前で踊るチャンスがあったら、罠かもしれないし、毒かもしれないけど、
まず踊るべし。
踊る舞台が大きければ大きい程、楽しみも大きいです。
トランプ候補もヒラリー候補も、大統領選挙という大きい舞台で踊っています。
メディアからボロクソに叩かれても、踊っている本人は、それなりに楽しいのではないでしょうか?
選挙とか、オリンピックとか、大きな舞台は限られた人にしか与えられませんが、
大きな舞台で踊る資格を得た人は、小さな舞台でも常に踊り続けている人だと思います。
踊り方は人様々ですが、どんな舞台でも、精一杯踊っている。
費用対効果?
この言葉は、いったい何を求めているのでしょうか?
目の前にあるにんじんを食べて、踊り続ける。
そこには、費用も効果もなにもありません。
あるのは楽しさだけ。
たとえ何も得られなくても、たとえ遠回りして、最後までたどりつけなかったとしても、
自分が楽しくて、
そしても誰も傷つけていなければそれでOKです。
楽しさは伝染します。自分が楽しければ、みんなも楽しい。
みんなで、この時代を踊り続けましょう。